『門』から見る夏目漱石の結婚観外文翻译资料

 2022-12-22 06:12

夏目漱石﹃門﹄論

︱︱宗助と子供に関連して︱︱

沢 柳 賢 二

始めに

『門﹄は﹃それから﹄発表の翌年︑明治四十三年三月一日から六月十二日にかけて朝日新聞に連載された︒﹃門﹄の研究において宗助と御米夫婦の︿愛﹀が取り上げられることが多い︒﹃門﹄が発表された年の十一月︑谷崎潤一郎は﹁信仰の対象なく︑道徳の根拠なく︑荒れすさんだ現実の中に住する今日の我々が幸福に生きる唯一の道は︑まことの道は︑まことの恋によって永劫に結合した夫婦の愛情の中に第一義の生活を営むにある︑これが﹃門﹄の作者の我々に教ふる所である﹂と述べ︑﹃門﹄の中で描かれているのは夫婦の︿愛﹀であるとした︒︵﹁﹁門﹂を評す﹂﹃新思潮﹄︶またこの評論を引用した江藤淳は︑谷崎は﹁この作品を︑一篇の充足した︑理想主義的な夫婦愛の小説として

(注1)

読んだのであって︑これ以外に﹃門﹄の正当な読み方はない﹂とまで述べている︒

(注2)

これらのような﹃門﹄に野中夫婦の︿愛﹀をみる読み方がある一方︑その論に疑問を呈するものもある︒西垣勤は﹁﹁理想主義的な夫婦愛﹂ということば自体気になる︑どうしても納得できない表現でしかない﹂と述べている︒西垣は︑御米が流産の苦悩を宗助に打ち明ける場面をあげ︑﹁打ち明けたところで宗助は﹁さすがに好い気持はしなかつ

(注3)

た﹂が﹁わざと鷹揚な答をしてまた寝てしまった﹂だけ﹂であり︑﹁二人の間の裂け目は明らか﹂であると指摘した︒

(注4)

このような夫婦の︿愛﹀の﹁裂け目﹂に注目するものは︑作品中の御米の描写をとりあげることが多く︑そこには興味深い示唆に富んだものが多い︒たとえば︑前田愛は野中家の六畳の居間に注目をし︑﹁御米の居間は︑宗助夫婦の住まいのなかでもっとも深い翳を淀ませている場所といっていいだろう︒御米が見つめる鏡は︑三人の子どもを死なせた暗い過去の記憶が引きだされてくる時間の断り口であり︑この部屋にこもることで御米は宗助すら立ち入るこ

(注5)

とがゆるされていない無意識の悩みにその身体を委ねるのである﹂と指摘した︒御米には宗助に見せない﹁悩み﹂があり︑それが﹁子どもを死なせた暗い過去﹂に結びついているという指摘は︑宗助と御米の関係をみるうえで︑忘れてはならないものである︒

御米にとっての流産は罪の意識と結びついている︒﹁易者﹂︵十三︶の﹁貴方は人に対して済まない事をした覚がある︒その罪が祟つてゐるから︑子供は決して育たない﹂︵十三︶という発言により︑子供の死は安井を捨てたという自身の過去に結びつけられているのである︒子供を生みそれを育てていくことは︑現在の御米の幸福へと繋がる︒しかし︑過去の罪によってその幸福は訪れることはないと易者に告げられたのである︒現在の幸福が過去の罪によって閉ざされてしまった御米の苦しみは計り知れない︒この御米の苦しみについて高橋秀晴は﹁子供が育たないことを巡る認識の違いを例にとれば︑それが因果によるものであれ不注意によるものであれ︑御米の罪の意識の深さは宗助の

(注6)

比ではない﹂と述べている︒

たしかに︑子供が育たないことへの罪の意識は御米にとって強烈なものである︒しかし︑宗助が子供が育たないことを軽視しているわけではない︒子供の存在は︑妻にとってだけではなく︑夫にとっても重要なもののはずである︒

(注7)

﹃門﹄の研究において︑子供と御米については多く論じられているが︑子供と宗助についてはあまり論じられていないようである︒宗助にとって子供はどのような意味をもっているのだろうか︒本論では︑子供と宗助の意識の関連を手掛かりに﹃門﹄を論じる︒

一 〈家﹀と宗助

『それから﹄の代助と﹃門﹄の宗助を比較すると︑それぞれの実家の経済事情は似ている︒代助の父得は﹁大分の財産家﹂︵三︶で︑兄の誠吾も父の関係する会社に入って重要な地位を占めており︑代助は﹁親の金とも兄の金ともつかぬものを使つて生きてゐる﹂︵三︶︑つまり資産家である実家の財産の余剰にありつき生活をしていた︒﹃門﹄の宗助も﹁相当に財産のある東京ものの子弟として︑彼等に共通な派手な嗜好を学生時代には遠慮なく充たした男﹂︵十四︶であり︑二人とも実家が相当の財産を有していること︑また金銭的な不自由を感じることなく青年時代を過ごしたしたことにおいて共通している︒

だが︑二人の設定には見過ごしてはならない相違がある︒石原千秋が注目しているように﹃それから﹄の代助は次男であり︑﹁誠吾が戸主になれば︑長井家における代助の扶養を受ける権利の優先順位は下がってしまう﹂存在であ

(注8) (注9)

った︒それ故に代助にとって︿家﹀を継続発展させる義務は軽い︒また別稿で述べたように︑代助は父の庇護下で生活をしているが︑旧時代の道義を信用しておらず︑彼にとって父との徳義上の繋がりは希薄である︒義務︑徳義において実家との繋がりの薄い代助は︑︿家﹀という制度から受ける重圧はさほど感じていない存在なのである︒一方で﹃門﹄における宗助は野中家本家の長男として生を受けている︒実家の保有する財産の相続権は宗助にあり︑それは同時に︿家﹀を繁栄させる義務として︑立身出世や子孫を残さなければならないという重圧が常に存在していたと考えられる︒

二 成功者への感情の変化

(注10) (注11)

宗助が順当な人生を歩んでいたならば︑伊藤博文を代表とする社会的な成功者や︑坂井のような子宝に恵まれた存在になる可能性をもっていた︒しかし︑このような立場にいながら御米との恋愛事件によって﹁廃嫡﹂︵四︶にまでされかかり︑宗助は成功者としての道を踏み外してしまう︒宗助は御米との恋愛事件によって︑彼が課せられた立身出世という義務を果たせなくなってしまったのである︒

宗助は成功者に対してどのような心情を抱いていたのであろうか︒御米との恋愛事件から作品中現在までの︑宗助の成功者に対する心情が以下の部分に描かれている︒

学校を已めた当座は︑順境にゐて得意な振舞いをするものに逢うと︑今に見ろと云う気も起つた︒それが少時くすると︑単なる憎悪の念に変化した︒ところが一二年この方は全く自他の差異に無頓着になつて︑自分は自分の様に生れ付いたもの︑先は先の様な運を持つて世の中へ出て来たもの︑両方共始から別種類の人間だから︑ただ人間として生息する以外に︑何の交渉も利害もないのだと考える様になつた︒︵七︶

作品中現在は︑伊藤博文暗殺事件が起きた明治四十二年一〇月である︒宗助と御米が﹁いつしよになつて六年ほどの長い年月﹂﹁冬の下から春が頭を擡げる時分から始まって︑散りつくした桜の花が若葉に色を易える頃﹂︵十四︶という記述から︑二人の恋愛事件が明治三十六年の春と推定できる︒この期間を大まかにまとめると︑約一年半ほど広島で過ごし︑福岡で約二年を過ごしている︒広島と福岡での生活を合わせるとだいたい三年半を過ごしたことにな

(注12)

る︒その後︑約二年半を東京で過ごしているのである︒自身が中途で大学を辞め出世の道を外れたために︑﹁学校を已めた当座は︑順境にいて得意な振舞いをするものに逢うと︑今に見ろと云う気﹂︵七︶が起こる︒ここでは︑︿一度出世街道から外れはしたがまだ修正できる﹀というような︑社会的成功を夢見る宗助の姿を読み取ることができる︒この時点の宗助には﹁諦め﹂﹁忍耐﹂︵四︶という観念は見受けられない︒﹁活きた現在﹂と﹁これから生れようとする未来﹂︵十四︶を当面の問題とする︑資産家の息子としての宗助が︑まだ存在しているといえる︒

出世の道を外れた宗助の夫婦生活は経済的な困窮に陥る︒御米が佐伯から受け取った屏風を売るために骨董屋を訪れる場面で﹁広島以来こう云ふ事に大分経験を積んだ﹂︵六︶と記されており︑二人の生活が始まって以降︑御米が生活上の金銭の捻出のために質通いをしなければならなかった程に︑経済事情が困窮していたことが窺える︒また広島に移って半年ばかり後︑父の死後に手にした千円も︑福岡へ移住する時にはほとんど使い果たしてしまい︑﹁福岡生活は前後二年間を通じて︑中々の苦闘﹂︵四︶をしたことが作品中で述べられている︒福岡での経済的に厳しい生活の中で宗助は﹁ひそかに過ぎた春を思い出して︑あれが己の栄華の頂点だったんだ﹂︵四︶と考えている︒経済的に潤沢であった学生時代を﹁過ぎた春﹂︵四︶としてなつかしむことは︑︿未来﹀に夢を見る行為とは相反するものである︒ここにはもはや﹁活きた現在﹂と﹁これから生れようとする未来﹂︵十四︶を当面の問題とする︑資産家の息子としての宗助は存在していない︒ここで存在するのは︑自身に義務としてまた権利として与えられた出世の道を外れ︑そこに戻ることが叶わない社会的失敗者としての宗助である︒社会における成功者となりえなかった宗助は︑経済的に潤沢であった学生時代をなつかしみながらも︑失敗者から抜け出すことのできない貧困に苦しむ現状を受け入れて生活していかなければならない︒失敗者の宗助は︑有りえた社会的成功者という自分の理想を諦め︑貧困という現実に耐えていかなければならないのである︒東京で生活する作品中現在の宗助の生活を支えている﹁諦め﹂﹁忍耐﹂︵四︶という観念は︑この福岡での生活の頃から生まれたものだと推測できる︒また成功者へ対する﹁単なる憎悪の念﹂︵七︶もこのときにはもっていたのかもしれない︒

宗助は学生時代の旧友である杉原の尽力によって東京に戻ることになる︒杉原は宗助の同級生で︑卒業後高等文官試験に合格してある省に奉職している人物であり︑宗助が歩むことのできなかった出世街道を歩む人物である︒自身の現在に負い目を感じている宗助は﹁失敗者としての自分﹂︵四︶を恥じており︑杉原のような﹁成功者の前に頭を下げるを恥ずかしく﹂︵四︶思ってしまう︒ここにも成功者になれなかった宗助の苦しみが見受けられる︒

杉原のおかげで東京へと帰郷することになった宗助は︑東京で役所に勤める﹁腰弁﹂︵三︶としての生活を始めることになる︒宗助の東京での生活は︑﹁日当の悪い︑窓の乏しい︑大きな部屋の模様や︑隣りに座つている同僚の顔や︑野中さん一寸と云う上官﹂︵二︶といった環境で﹁せつせと働かなければならない﹂﹁非精神的﹂︵二︶な平日の六日と︑その﹁六日間の暗い精神作用﹂︵三︶を回復させるための日曜日とに分かれている︒腰弁としての平日と︑七日に一度の日曜日とを比較した平岡敏夫は﹁﹁奇麗な空﹂を仰ぎ︑﹁奇麗な床屋﹂で頭を刈り︑﹁奇麗な﹂湯に浸るという願望は日曜日ということをぬきにしては考えられないのが宗助の生活である﹂と指摘し︑﹁日曜日は宗助にと

(注13)

って日常ではない︒日常から脱却を試みようとする日﹂であると論じている︒平岡の述べるように︑宗助にとっての日曜日は特別なものであり︑普段の暗い精神から脱しようとする行動が見受けられるが︑宗助は平日の﹁暗い精神作用﹂︵三︶のために多くの希望を日曜に投じようとして﹁却つてその為に費やす時間の方が惜しくなつて来て︑つい又手を引込めて︑凝としているうちに日曜は何時か暮れてしまい﹂︵三︶︑満足に日常を脱しようとする試みを行うことができないのである︒それほどまでに東京に移り住んでからの宗助は︑﹁非精神的﹂︵二︶な労働のために困憊し

﹁身体と頭に楽がない﹂︵二︶のである︒この頃の宗助にはすでに﹁単なる憎悪の念﹂︵七︶という感情は見受けられない︒東京に移ったのが二年半前なので︑成功者と自分を﹁別種類の人間﹂︵七︶と考え出した﹁一二年この方﹂︵七︶は︑東京に移って以降ということになる︒成功者と自分を別人種と考える宗助には成功者へ対する憧れも弱くなっている︒彼は﹁妙な物淋しさ﹂︵二︶から﹁懐に多少余裕があると︑これで一つ豪遊でもしてみようか﹂︵二︶という思考にいたるが︑その淋しさも強烈なものではなく︑結局行動を起こすことはない︒豪遊とは学生時代の資金に余裕のあった宗助が行ったものであり︑成功者を象徴するものである︒それを起こそうとする淋しさは︑成功者への憧れからくるものであろう︒しかし︑この時期の宗助にはそれは強いものではなくなってしまっている︒つまり︑宗助の中では︑腰弁としての自分を受け入れ︑ありえた成功者としての︿未来﹀は︑完全に切り離されているのである︒

ここまで述べてきたように︑宗助は六年間での経済的困窮の中で︑まるで別人のように変化してきた︒成功者への憧れ︑もしくは恨みが徐々に薄れていった︒そして成功者になることを諦め︑腰弁としての現在を受け入れるようになったのである︒

三 宗助にとっての子供の死

前章で宗助の成功者に対する感情の変化について述べたが︑変化を起こした原因には︑三度にわたる子供の死が関係している︒この六年間の成功者に対する宗助の心情は﹁今に見ろと云う気﹂︱﹁単なる憎悪の念﹂︱﹁両方共始から別種類の人間﹂︵七︶という三段階の変化をしているが︑そこに三度にわたる子供の死の時期を当てはめてみていく︒

京都を去って広島での﹁痩世帯﹂︵十三︶を張っている頃︑御米は一度目の懐妊をする︒宗助はそれを﹁眼に見えない愛の精に︑一種の確証となるべき形を与へた事実﹂︵十三︶と解釈して喜んだ︒学校を退学し出世への道が断たれたことによって︑社会的な成功をおさめる道筋からはずれてしまった宗助であったが︑夫婦生活においては﹁和合同棲﹂︵十三︶という点で人並み以上に成功していた︒そのような宗助と御米にとって︑二人の愛の確証となる子供の誕生は︑幸福な家庭を築くことに繋がる︒宗助はそのことを喜び︑目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った︒しかし︑子供は死んでしまう︒その原因となったのは経済的困窮であった︒﹁夫婦の活計は荷い月ばかり﹂︵十三︶が続き︑貧困のために二人の﹁愛情の結果﹂︵十三︶

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外文文献翻译

译者:庄丽娜20141322008

四、对孩子的期待和阿米的苦恼

正因为宗助自己的社会失败,所以希望小六不要重蹈自己的覆辙。他认为“自己已经半途失学,至少该让弟弟就学成材”。最终决定让小六住进自己家中,但阿米却因此感到痛苦。决定夫妻俩和小六同住,就意味着要让出那间六铺席的房间,那里一直以来放着阿米的梳妆台。那里是阿米用来梳妆的地方,也是阿米可以不用在意丈夫视线的地方。作品中刻画了阿米听完宗助关于孩子的话之后,在六铺席的房间里独自一人烦闷的身影。正如前田爱所指,“阿米的房间是宗助夫妇住宅中最昏暗的地方”,这个房间是“连宗助都不被允许进入,阿米潜意识深处能隐藏自己”的地方。阿米有着不想让宗助看见的痛苦,这一点值得注意。

福井慎二论述说“他们共有的lsquo;环形的时间rsquo;,实际上存在着差异,对于宗助阿米而言意义是不同的”,他指出对于宗助而言,“lsquo;环形的时间rsquo;是舒适的,想要停留的时间”。另一方面,“对于阿米来说,她只是想获得生育,抚育孩子的lsquo;直接的时间rsquo;,想要脱离无法生产,抚育孩子的lsquo;环形的时间rsquo;,两个人的方向完全是相反的”。平凡的日常这一“环形的时间”可以让人从造成自身现在情况的过去,和看不见希望的未来中转移视线,对于宗助来说是可以躲避痛苦的时间。而对于阿米而言,“不仅仅是怀孕却反复流产、死产,也意味着她一直没有再怀孕,确是残酷而难以自容的时间”。

经历三个孩子的死亡是残忍难熬的,夫妻之间交谈也一直避讳着这件事。但是,宗助认为孩子的诞生是给现在的夫妻生活带来希望的预兆,可以让他们脱离“环形的时间”,面向未来生活。对于在社会生活中无法成功的宗助而言,孩子的出生具有重要的意义。宗助所说“没有小孩太寂寞了”是“就一般类似的事而言”的。这是宗助无意识中期待着孩子诞生的内心表现。

《漱石作品论集成》(一九九一年十月 樱枫社)第七卷的“鼎谈”中谈到了很有趣的观点。其中浅野洋提出“《门》是一部夫妇就寝场面很多”的小说,暗示夫妇之间一直有生育孩子的行为。对此,赤井惠子提到宗助的话“你不是怀上过孩子吗”,补充说道“也就是说,归根到底,一直在做可以怀孕的努力”。

对宗助来说孩子是未来的希望。即使经历了三个孩子的死亡,他也没有舍弃这种希望。这种希望在夫妻之间暗中达成了默契,因此可以认为他们一直持续着生育孩子的行为。

但是,孩子的存在是夫妇二人希望的同时,对阿米而言也是感到苦恼的事情。阿米认为自己是勒死孩子的,“犯下可怕罪行的恶人”,对她而言,因为孩子的存在,结果自己倍感痛苦折磨也是事实。因此丈夫在日常生活无意中表现出的对孩子的希求,成为了阿米的苦恼。

阿米被“夺走”六铺席的房间之后,向丈夫诉说了一直以来没让宗助发现的罪责的心理。如此渴望孩子的宗助,在听到孩子这件事一直让阿米感到痛苦之后,无法再向阿米提出生育孩子的要求。因此,宗助完全失去了仅剩的孩子这一希望。

这一坦白不仅是勒死自己孩子,“犯下可怕罪行的恶人”的内心谴责,也与占卜者所说“做过对不起别人的事”,也就是背弃了安井的过去联系在了一起。听了阿米的坦白,让阿米背负痛苦的“过去”,让自己社会生活失败的“过去”,也就是对安井犯下的罪行再次摆在了宗助的面前。

五、和阿米的爱情

《门》是从“可起名为爽秋般的好天气”(一)周日的廊子开始,到在能听到“莺的鸣叫声”(二十三)春天的廊子迎来结局。上一个作品《それから》是从“八重山茶”的季节开始,到“灼化般高高升起的太阳”(十七)的季节,也就是说一想到是在夏季展开的情节,就能够联想到是描写经历了炽热的炎火焚身般恋爱事件后的代助。《门》中的宗助,他和阿米的未来,在经历了“涂成了通红”“生死之战”(十四)的时期,“从冬末到春抬头开始,散尽的樱花变为嫩叶的颜色之时”(十四),也就是说从春至夏。《门》的恋爱事件的时间大致与《それから》代助的恋爱事件重合。将《それから》和《门》两个作品重叠在一起的时候,濑沼茂树所论述的“继承了代助新生的设定”的评价是成立的。

然而单指论述《门》这个作品的时候,因无法详细的叙述宗助和御米之间的恋爱事件,常常引发着各种问题(注17)。难道宗助和御米之间真的不存在爱情吗?在这里谈论一下关于两人的爱情。

宗助通过安井“这是我妹妹”(十四)认识了御米。这是两人的相遇。宗助和御米等待着去送钥匙的安井,只言片语的聊着。需要注意十四章描写此时的相遇。

在这里的讲话人是通过宗助的视角,回想着宗助过去的记忆。也就是说在这个描写里同时存在着宗助过去的思考和现在的思考。

过去的宗助与御米的对话的感觉“不过是简略的话语”(十四),两人只是有着安井这个交点的“平凡的男人”(十四)和“平凡的女人”(十四)。宗助认为那时的两人不过“表现的是作为人类的一种好感”(十四)。仅仅只是作为好朋友安井的妹妹阿米而存在,在“门前”(十四)伫立时的景色,对当时的宗助来说并没有什么特别的。

但是,现在的宗助知道两个人的未来会被染成通红。对于宗助来说,两人伫立在门前时的景色是无法让人忘怀的。“他们的影子弯曲着,只有一半映照在土墙上”(十四)以及“御米的身影被蝙蝠伞遮住,取代头映在墙上的是形状不规则的伞”(十四)等是宗助目前所记忆着的。“微微倾斜的初秋的某日,逐渐逼近两人的暴晒”(十四),“阿米打着伞,在没有多凉快的柳树下乘凉”(十四)“宗助白色的筋肉和随缘选的紫色伞,以及还未完全褪去的柳叶的颜色,后退一步通体看到的”(十四)也是宗助现在的记忆。对于当时的宗助和现在的宗助,和阿米两个人在门前伫立的姿态,价值是完全不同的。

对那日的印象一直保留着。就是说从那日以后到现在,御米和门的画面是以“染着星点颜色的平面画”(十四)而存留的。当时只是宗助和好友安井,以及作为妹妹而被介绍的御米之间的关系,并没能感受到当时那一瞬间的重要性。

然而对于现在的宗助来看,阿米站在门前那一瞬间的风景,仿佛像被装饰过的绘画般强烈的刻在记忆里的理由是很明确的。那时的风景对现在的宗助来说,是将两人“烧焦的火焰”(十四)的开始,而保存着最初瞬间的是“现在想想一切一目了然”(十四),现在想想“何等神奇”(十四)。就是说,在这个门前伫立的一瞬间仿佛像绘画般的风景,是两个人爱情的开始。

对于现在的宗助来说,他很清楚的知道在门前伫立时的风景就是两人爱情的开始。然而当时的宗助并没能意识到与御米之间的这层关系。那么,宗助是何时开始意识到对御米的爱慕之情?

“他们在被自身被道德良心谴责之前,一瞬间很茫然,他们怀疑大脑是否清醒”(十四)“他们在他们眼睛里,作为不道德男女而感到羞耻之前,已经作为不合理的男女,不可思议的被映射出来了”(十四)等的记述中,他们可能没有意识到对对方的爱。但是这个描写不应该当做爱情不存在,而是两人还没有意识到爱情的来临。他们对“道德上的良心”(十四)很清楚,但与大脑的判断相反,被情所捆绑在一起。所以“怀疑大脑是不是清醒”(十四),作为犯下通奸罪的“不道德男女”(十四)比起他们对自身的认识,而是感到“不合理男女的不可思议”(十四)。因为爱情的自然之力他们理所当然的捆绑在一起,因此找不到“像借口一样的借口”(十四)。到这为止他们没能理解相互的爱情。

但暴露之日早已经挺过了“道德的痉挛之痛”(十四)。世间让他们背负的“道德的罪名”(十四)是强迫给他们的痛苦。然而作为回报得到了“相互的幸福”(十四)。那是两人自然而然生成,将两人捆绑在一起的爱情。两人意识到了“治愈全部的甜蜜”(十四)的爱情的存在,进一步因为选择了爱情,无需再恐惧“痉挛之痛”(十四),才能够迎接暴露之日的到来。

六、立身出世和爱情

宗助丢弃了出人头地的梦想,选择了与阿米的爱情。那么,在《门》发表的明治时期,人们对于出人头地和爱情是如何考虑的呢?

涩谷之美分析了时任第一稿等中学副校长的木下广次的“龙城演说”(1888年)。明治时期的学生“被禁止进行性行为”,这一命令的理由是,学生应注意到来自于“国际社会,日本社会,故乡的亲戚”这三个方面的“视线”,“建立一个不被西洋人蔑视的国家,不辜负社会的期待,堂堂正正的成为支撑国家发展的重要角色,不辜负来自父兄的期待,在这世间夺取功名出人头地”。使男学生们“参与到日本的近代化建设中去”,并鼓舞“每个人的出人头地”。

也就是说,立身出世是明治政府为了推行日本的近代化建设而采取的一条政策,因此,学生们极力做到“克己复礼,刻苦勤奋”的要求。

另一方面,通过德富苏峰的《非恋爱》可以了解到当时的恋爱观。这是《国民之友》第125号(1891年)发表的关于论述青少年恋爱的文章。在这篇文章中,苏峰批判了青少年的恋爱,其中的理由是“恋爱的情”和“功名的志”不可两全,“人一旦跪倒在圣坛之下,就很难再被其他东西干涉了。比如说功名,志向和事业”。“圣坛”=恋爱是会阻碍男性立身出世的。

也就是说,在当时社会,恋爱被视为一个会危害国家所倡导的立身安命的存在。

这些大概是在《门》的发表2年前,在日本进行近代化建设中诞生的言论,想必,这些都与宗助不无关系吧。

对于国家来说,虽是有大学来为国家培养有才能的人,因为爱情,选择了同阿米一同生活的宗助,恰好偏离了国家所提倡的立身出世的道路,因为爱情,未响应国家的号召,宗助被阿米的爱所支撑着,梦想着获得世俗上的成功。但是,他已在立身出世的道路上偏离了,被贫困折磨,甚至与阿米的爱情结晶——都失去了3次。

在明治时代的近代化浪潮中,他们的爱情饱受重压,最象征这个重压的东西,对于宗助来说,就是孩子的死亡。这本小说描写的宗助和阿米是,因同否定爱情的社会进行抗争,而筋疲力尽的夫妻形象。

摘译自『夏目漱石『門』論 : 宗助と子供に関連して』

(沢柳 賢二.専修国文.2014: 43 - 63)

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